PROFILE
京都の六斎念仏と小山郷六斎念仏
ひと月のうち、8・14・15・23・29・30の六日は、悪鬼が出て人命を奪う不吉な日という仏教伝承に基づいて、民衆が講を組織して民家などに集まり、念仏を唱えるという習俗が始まったのは、高野山の麓の村々であったらしい。
南北朝期から室町時代のはじめのことと思われる。それが死亡した講員の供養念仏になり、やがて盂蘭盆会に村の家々を棚経を唱えて廻るようになったのは、江戸時代の初めであった。
その意味では上鳥羽六斎や西方寺六斎が伝承した念仏六斎は、古い形式を残すといえよう。鉦を中心とした和歌山や奈良などに伝承された六斎念仏とは違い、京都の六斎念仏の特色は、独特な六斎太鼓を用いることで、これは既に永禄10年(1567)に14代将軍足利義輝の葬儀のおりの記録(言継卿記)に記されてるから、相当に古くからのことである。
京都の六斎念仏を行ったのは、もともと近郊農村の人々で、江戸時代に入ると、彼らは盆の時期などに自分たちの村中を念仏を唱えて廻るのみならず、洛中に出かけて、商家など大店を檀那場として、店先などで棚経を唱え布施を頂戴した。その記録上の初見は相国寺の『鹿苑日録』慶長2年(1597)7月14日条で「六斎衆来る、堂前において念仏」とある。
小山郷六斎会は、その名の「郷」という字からもうかがえますように昔は都の近郊でありまして三十軒程の農家が代々六斎念仏の精神と技術を受け継いで今も毎年八月、盂蘭盆会供養として上善寺(六地蔵の一番札所)とその壇家の間に念仏踊を奉納して絶えたことはありません。